人類は誕生以来、常に進化をしてきた。それは人類が自分自身の意図ではなく、大自然の法則に沿って進化してきたといえる。しかし、人類は文明を持ち、社会性と科学力をもつ存在となり、自然に影響を与える存在となってきた。そのとき、人類の進化はどうあるべきなのだろうか。これからの人類の進化は、自分たちで考えて行動しなければならないくらい進化しているのではないだろうか。

ではいったい人類は種としてはどれだけ進化しているのだろうか。現代の学校教育では、自立を一つの基準としている。確かに、よく教育現場では子どもたちを自立させるという言い方をよく聞く。自立とは、自分のことが自分でできる。つまり、自分でこの社会を生き抜いてゆくことができる能力を身に着けた時、個人として自立したといわれる。しかし、その単に個人として自立した人たちの集合なら、個人の望みや欲望でその行動が決められ、人類全体の将来などまだまだ考えることができない段階であるといえる。

そこで、真の人類の進化を促すことができる教育レベルは、個人の自立をはるかに超え、社会性を身に着け、他の人たちだけでなく、他の種にも思いやりを持つことができ、人類と他の種の将来を考えて今の最善の行動がとれるレベルが必要だと思う。

このようなレベルの成長を、「人類が種として自立した」という表現で表すことにする。そこで個人の自立を考えて見ると、それは人類の種としての自立のからみれば単なる第1段階にしかすぎない。上記のように社会全体としての自立、人類の種としての自立があって、初めて人類は種として大人となり、将来に向け成長することができる。

人類全体が自立をすれば、自分の体を傷つけることはしない。つまり、民族の違いや宗教の違い、性の違いや、能力の違いなど関係なく、いたわり守ろうとするはずである。肩が凝れば休めてマッサージするように、飢饉で困っている国家があれば、他の国家が助けるのは当然である。ましてや、国家間で争いなどするような、レベルの低い認識はないはずである。

個人としての成長の大きな特徴は、過ちは反省し二度と繰り返さないということです。人類の成長も、もちろん、こうあるべきです。戦争や内乱、暴力による解決方法は今までに成長を促したことはない。この学習がない限り人類は種として生長しているとは言えません。

学校教育はこの人類というとらえ方を前提に、単なる個人としての生徒の自立ではなく、お互いを理解しともに育つことを目指して、人類の一員の社会人として自立することが教育の目的となされなければなりません。